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真珠養殖

琉球真珠の歴史(戦後~1961年)

川平湾で再び真珠養殖 琉球真珠の現会長である渡嘉敷進は、1924年(大正13年)12月に台湾台南州で生まれ、5歳の時、父親の死去に伴い故郷の石垣島に引き揚げます。地元の尋常小学校を卒業後、再び台湾へ渡り、台湾総督府水産講習所の養殖科で学びます。当時の渡嘉敷は、夏休みに石垣島へ帰省すると、毎日のように川平湾の御木本真珠養殖場を訪れ、黒蝶真珠養殖に強い憧れを抱くようになります。

渡嘉敷は戦後、1946年(昭和21年)に石垣島へ帰郷すると、八重山水産業会に事業課長として勤務します。いずれは黒蝶真珠養殖をやってみたいという思いがあった渡嘉敷は、会長の玉城仁栄氏に真珠養殖の可能性を熱心に語ります。その熱意は、玉城氏を通じて、琉球水産組合連合会の初代会長に就任していた稲嶺一郎氏へと伝わります。
稲嶺氏は、真珠養殖の成功は沖縄の水産業振興につながると確信し、すぐにカキ養殖の創始者で水産養殖の世界的な権威である宮城新昌氏に相談を持ちかけます。そして、自ら発起人代表となり、真珠養殖会社設立に向けて準備を進めます。
1950年(昭和25年)10月、稲嶺氏は黒蝶真珠養殖に適した漁場を求めて沖縄各地で調査を実施します。調査地となったのはクロチョウガイの生息に適した地域で、沖縄本島の本部半島沿岸部、久米島、宮古、八重山が選ばれます。この調査には、宮城氏の他に、戦前の南洋で海綿養殖に成功していた光塚喜市氏が招かれます。石垣島では渡嘉敷進が案内役として同行します。 この調査により最終的に黒蝶真珠養殖の漁場として選定されたのは、やはり石垣島川平湾でした。

  • 黒蝶真珠のパイオニア 渡嘉敷進



真珠のふるさと 川平湾 戦前に御木本幸吉氏が川平湾で黒蝶真珠養殖を長年にわたって続けたのは、この湾が於茂登連山によって取り囲まれ、養殖にとって最大の敵となる台風から守られているという地形的な条件が理由としてあげられます。
また、川平湾は外洋と湾内を結ぶ潮通しが良いため、本来外洋性の生物であるクロチョウガイが湾内でも生息できること、さらに原生林で覆われた於茂登山系の川からはクロチョウガイの生育に必要な栄養塩が流入してくること、こうした自然環境が川平湾を黒蝶真珠養殖にとって理想的な漁場としているのです。
川平湾はまさに「真珠のふるさと」と呼ぶにふさわしい、天然の真珠養殖場なのです



戦後初の外資導入 1951年(昭和26年)11月、琉球真珠の前身となる球陽真珠海綿養殖株式会社が発足します。出資比率は、本土から大阪の宝石商である角谷栄蔵氏が40パーセント、沖縄から稲嶺一郎氏などが60パーセントでした。
この会社は、アメリカ民政府外資導入許可の第1号となります。

戦後アメリカ統治下の沖縄では資金が不足していました。会社設立にあたっては日本本土からの資金(外資)を必要としたのですが、当時沖縄では外資導入が厳しく制限されていました。そこで、角谷栄蔵氏を出資者、光塚喜市氏を代表者として琉球真珠海綿養殖株式会社が東京築地に設立されます。一方の沖縄では、稲嶺一郎氏がアメリカ民政府と交渉の末、戦後初の外資導入許可を得ることになります。
この東京の会社との合弁会社として設立されたのが、球陽真珠海綿養殖株式会社(ほかに奄美真珠海綿養殖株式会社)でした。
初代社長には、開業医で戦後すぐに初代八重山支庁長を務めた宮良長詳氏、専務には玉城仁栄氏が就任します。稲嶺一郎氏は取締役として側面から支援することになります。渡嘉敷進は球陽真珠に就職し、養殖場長として技術を担当します。発足当時の従業員は13名という人員でした。

会社設立から半年後の1952年(昭和27年)4月、三重県から小磯楠一、光塚茂一、光塚品子の3氏らの技術者を招き、川平湾で操業を開始します。同年10月には、戦前パラオの御木本真珠養殖場支配人で、黒蝶真珠養殖の経験もある小串次郎氏が来島します。
技術者諸氏の来島は地元紙でも取り上げられ、真珠養殖によせる地元の期待も大きかったことがうかがえます。その後も数名の技術者が本土から招かれます。沖縄側の技術者は、渡嘉敷進と南風野喜孝(はえのきこう)でした。

  • 球陽真珠養殖場入口

  • 事務所は戦前に御木本が施術に使っていた建物

  • 「球陽真珠養殖場」の看板

  • 事務所内(渡嘉敷進)



本土側総引き揚げ 1954年(昭和29年)、会社設立後初となる真珠の収穫、すなわち浜揚げが行われます。2年前の操業初年度に挿核手術したクロチョウガイから真珠が112個収穫されます。しかし、どれも色と形が悪いものばかりで、厳しい結果に終わります。
これに続く年度も、浜揚げされる真珠に良質なものはごくわずかでした。一方で、真珠母貝のへい死率が高いのも問題でした。
このように事業開始から数年間は技術開発に見通しが立たず、会社経営は早くも前途多難が予想される状況でした。

1958年(昭和33年)、ついに本土側の技術者と会社役員は「黒蝶真珠養殖は技術的に不可能」との結論に達し、全員本土に引き揚げることになります。
養殖場の従業員も人員整理により、渡嘉敷進、南風野喜孝、仲野源一の3名のみとなります。
この残された3名が川平湾で養殖研究を細々と、しかし諦めることなく継続します。渡嘉敷は、生活苦にあえぎながらも「不思議と闘志もわいてきた」と当時を回想しています。

  • 創業当時の挿核手術(渡嘉敷進)



黒蝶真珠養殖へのさまざまな挑戦 戦後沖縄では、黒蝶真珠養殖が注目され、琉球真珠が操業する石垣島川平湾を含めると9か所で真珠養殖場が事業化されます。
1951年(昭和26年)、宮古島漲水で狩俣紹良氏が半円黒蝶真珠を、沖縄本島運天港で宮城新昌氏の琉球水産養殖研究所が半円黒蝶真珠を、宮古島狩俣で堀良光氏が真円黒蝶真珠を手がけます。
1952年(昭和27年)には、西表島船浮湾で崎山毅氏が半円と真円を、1953年(昭和28年)には、石垣島観音崎で森田茂氏が半円と真円を、座間味島で和気英夫氏が半円と真円に取り組みます。
1954年(昭和29年)には、宮古島漲水で与那覇和彦氏が半円を、そして1957年(昭和32年)には、同じ宮古島で光塚喜市氏の奄美真珠海綿養殖株式会社(球陽真珠と同時に創業)が半円と真円を始めます。
こうして戦後せきを切ったように黒蝶真珠養殖への挑戦が各地で試みられますが、技術的な困難と資金難を理由に、1963年(昭和38年)までには当社の川平湾養殖場以外は全て事業から撤退します。また、奄美、鹿児島、高知で手がけられていた黒蝶真珠の養殖試験も失敗に終わります。

  • 創業初期の挿核手術室があった川平湾に浮かぶ小島・婿離(むこばなれ)

  • 婿離の挿核手術室

  • 挿核手術室内

  • 現在の婿離



会社解散の危機 他の養殖場と同様に当社もまた、会社の存続が危ぶまれる状況でした。
当時、浜揚げされる数少ない黒蝶真珠のうち良珠は御木本真珠店に買上げしてもらうことで資金的な援助を受けていました。

1961年(昭和36年)9月、困難な状況に追いうちをかけるように、大型の台風20号パメラが石垣島川平湾を襲います。
養殖筏は破壊され、針金製の養殖カゴは曲がり、手術貝は海底に散逸するなど、甚大な被害を受けます。全壊した養殖施設を補修する資金にも事欠くため、渡嘉敷らは孟宗竹製の筏を作り替えるために於茂登岳山中からリュウキュウチクを刈り出し、筏のアンカーロープにはクロツグというヤシ科の植物で編んだ縄を代用するなどして復旧作業にあたります。
この台風パメラは、会社経営にとって決定的な打撃を与えます。株主の間からは会社解散論さえ噴出してきます。

  • 孟宗竹製の養殖筏(南風野喜孝)

  • 針金で編んだ養殖カゴ

  • 養殖カゴと浮き玉に防錆のためコールタールを塗る作業

  • 養殖カゴの舟積み