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真珠養殖

琉球真珠の歴史(1962年~1976年)

琉球真珠として再出発 経営面で資金繰りに東奔西走していた専務の玉城仁栄氏は、琉球石油株式会社を設立し、社長に就任していた稲嶺一郎氏に、球陽真珠の再建を働きかけます。
稲嶺氏は、本土側出資の株式を琉球石油が全て買取り、役員の総退陣と琉球石油側から新役員を数名送り込むことを決定します。

1962年(昭和37年)4月、琉球石油の全面的な支援のもと、当社は社名を琉球真珠株式会社に改め、再発足します。社名を変えた理由は、会社が手がける養殖真珠の生産地を明確にするためでした。
取締役会長は稲嶺氏、第二代社長に玉城氏、そして専務には、戦後沖縄で御木本真珠の代理店を経営していた末吉業信氏が就任します。渡嘉敷進は取締役となり、経営陣に加わります。

  • 玉城仁栄氏



技術開発に明るい兆し 会社再建の翌年1963年(昭和38年)9月、石垣島測候所創立以来最低の920ミリバールを記録した超大型の台風14号グロリアが石垣島を直撃します。2年前の台風後に、リュウキュウチクとクロツグで補修しただけの貧弱な養殖筏は壊滅的な打撃を受け、筏を復旧し養殖カゴを海中に垂下するまでに2カ月を要することになります。
そして、この年挿核した手術貝8000個は、台風による損失で2年後の浜揚げ時には685個しか残りませんでした。
ところが、その中から収穫した黒蝶真珠277個のうち、123個は商品価値のある良質な真円真珠でした。渡嘉敷は、その「八方ころがし」の真珠を手に涙が止まらなかったそうです。
渡嘉敷をはじめ技術者たちは、なんとか基本的な技術開発までにはたどり着いたのです。黒蝶真珠養殖の前途に明るい兆しが見えてきました。

当時、他に頼るべき技術者や研究データが少なく、手探り状態で独自の発想に頼るしかなかった渡嘉敷は、クロチョウガイに適した手術器具も自分で創意工夫し、竹やブリキで試作したその数は200種類以上にも及びました。

  • 川平本店に展示されている当時の挿核手術器具



御木本真珠との共同研究 相次ぐ台風で甚大な被害を受けた川平養殖場では、1964年(昭和39年)、それまでの竹製養殖筏に代わり化学繊維製の延縄(はえなわ)式養殖筏を導入、養殖カゴも針金製から化学繊維製のネットに変えます。 一方で、こうした設備投資が会社経営をさらに圧迫させることにもなります。危機感を抱いた経営陣は、良珠真珠の歩留りを向上させるために、御木本真珠会社との共同研究を提案します。
技術開発に自信を深めていた渡嘉敷進は、黒蝶真珠とアコヤ真珠では養殖技術に違いがあることを長年経験してきたので、この提案に反対します。しかし、焦りの強い他の経営陣を押しとどめることはできず、共同研究の実施が決定されます。

1964年(昭和39年)5月から1966年(昭和41年)9月にかけて、御木本真珠から技術者がのべ8名来島します。当社からは渡嘉敷進、南風野喜孝とともに仲野英則(現専務)が技術陣に加わります。
しかしながら、この共同研究は良珠歩留りの向上という技術的な課題に進展を見ることなく終わりを迎えます。



新しい出資者あらわる 共同研究に期待をかけた経営陣の失望は大きく、株主総会では会社解散論が再燃します。また琉球石油側では、琉球真珠からの撤退と株券売却が決定されます。
社長の玉城仁栄氏と渡嘉敷進は、新しい出資者を求めざるをえませんでした。

そうした中、貝がとりもつ縁で、渡嘉敷らの窮状を救うために私財を差し出す人物があらわれます。沖縄の某農園の顧問として首里に住む園芸家で、また資産家でもあった中村俊夫氏です。
中村氏と渡嘉敷には貝類学会会員という共通点があり、中村氏は貝類調査で八重山に来ると、かねがね噂を耳にしていた渡嘉敷に会うために川平養殖場に立ち寄ります。貝類一筋に研究を続ける渡嘉敷の姿に共感した中村氏は、資金援助を申し出、琉球石油の持ち株を全額肩代わりすることを即座に承諾します。

1968年(昭和43年)、琉球真珠の筆頭株主となった中村氏は第三代社長に就任します。中村氏はさっそく川平に居を移し、渡嘉敷と寝食を共にしながら経営に当たります。
中村氏は社長在任中に、川平の集落内にカンヒザクラを植樹したり、川平湾内に浮かぶ島々にココヤシのヤシ林を造成したりと、園芸家としての一面をのぞかせる業績も残します。

  • 船上で中村俊夫氏と話す渡嘉敷進(後方は南風野喜孝)



世界初の黒蝶真珠養殖 同じ1968年(昭和43年)、渡嘉敷は黒蝶真珠養殖の最難関として立ちふさがる挿核手術において、ある技術的な発見をします。それは体液が多いクロチョウガイへ挿核する際、体液を減少させることで手術を容易にし、挿核不良と脱核を効果的に防止する方法でした。

この技術を採用して手術した貝が2年後の1970年(昭和45年)5月に浜揚げされると、それは琉球真珠にとって画期的な出来事となります。
それ以前の数年間は、浜揚げ珠数が200個から600個の間で横ばい状態が続いていましたが、この1970年の浜揚げでは1600個と飛躍的に向上します。しかも、10ミリを超える真円黒蝶真珠を大量に収穫します。黒蝶真珠の量産化に成功した瞬間です。
当社は石垣島川平湾で、世界の真珠養殖史上でも初めてとなる快挙を成し遂げたのです。これは渡嘉敷進が、18年もの長い間、悪戦苦闘しながらも黒蝶真珠養殖にかける熱い思いと信念を貫き通した結果でした。

翌1971年(昭和46年)には、黒蝶真珠2200個を浜揚げします。
このわずか2年間の浜揚げ真珠が生みだした利益により、会社の長年累積してきた赤字は一挙に帳消しとなり、黒字化します。当社はこれ以後、黒蝶真珠養殖を経営面でも採算の取れる事業として軌道にのせます。

  • 渡嘉敷進(1969年)
  • 黒蝶真珠を手に取る渡嘉敷進と南風野喜孝



世界で注目を集める黒蝶真珠 琉球真珠が世界で初めて成功した黒蝶真珠養殖は、日本国内はもとより世界でその存在が注目を集めるようになります。
1969年(昭和44年)、世界で最もよく知られている雑誌のひとつ『ナショナル ジオグラフィック(英語版)』9月号では、「黒蝶真珠発祥の地」として当社の川平養殖場が掲載されます。

また、このころ生産した黒蝶真珠のうち、一部は川平養殖場の売店で直売されましたが、良質な真珠の大半はミキモトを通して世界各地で販売されます。
なかでも一躍脚光を浴びたのは、1975年(昭和50年)5月に三重県鳥羽のミキモト真珠島をご訪問されたイギリス女王エリザベス二世へ、川平湾で浜揚げされた直径10ミリの黒蝶真珠1個がミキモトより贈呈されたことです。これは当社にとっても輝かしい出来事として歴史の1ページに刻まれることになります。

ところで、「幻の真珠」とさえ言われた黒蝶真珠が、養殖技術の確立によって世界中の愛好家の手に渡るようになると、「着色した黒真珠ではないか」という苦情がたびたび発生するようになります。
そこでミキモトの研究員であった小松博氏と赤松蔚氏は、米国宝石学会(GIA)の機関誌『ジェム&ジェモロジー(英語版)』1978年春号に論文を発表します。その中で、琉球真珠が1970年代初頭に黒蝶真珠養殖に商業ベースで成功したことに言及するとともに、養殖黒蝶真珠と着色した黒真珠を見分ける鑑別方法を解説します。
この論文により、世界中の宝石鑑定家の間で、養殖黒蝶真珠の存在が科学的に認知されることになります。

  • 『ナショナル ジオグラフィック(英語版)』1969年9月号



「海人(うみんちゅ)の魂」 1975年(昭和50年)は、沖縄国際海洋博覧会が開催された年でもあります。
観光地として風光明媚な川平湾に対する関心が高まるにつれ、当社の黒蝶真珠養殖も沖縄の地場産業として注目を浴びはじめます。
同年5月、当社は川平養殖場敷地内に「琉球黒真珠センター」(現川平本店)をオープンします。店内では、黒蝶真珠養殖に関する資料と八重山の海にできる各種造礁サンゴを展示し、直売コーナーでは黒蝶真珠の販売を本格的に手がけます。

1976年(昭和51年)には、戦後八重山の文芸や演劇の分野で葦間洌(あしまれつ)のペンネームで活躍した大浜英裕氏が、『黒真珠物語 そのふるさと 沖縄の海と風土』を出版します。本書は、川平湾で黒蝶真珠養殖が成功するまでの「養殖苦闘史」を文学的に作品化し、その軌跡を後世に伝える記念碑的な著作となります。
大浜氏は、川平湾で生まれた黒蝶真珠は、「涙と汗にまみれて、沖縄の人々の沖縄の心が凝集して、ついに黒真珠を世に送り出すことに成功した、その執念、その不屈さ、その海人(うみんちゅ)の魂を、静かに語りかけてくる」と記します。 『黒真珠物語』は、2000年(平成12年)に『世界初 黒蝶真珠誕生物語』と改題され再版されます。

  • 1978年頃の琉球黒真珠センター(現川平本店)

  • 大浜英裕氏『黒真珠物語』(右)と『黒蝶真珠誕生物語』(左)