琉球真珠

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真珠養殖

琉球真珠の歴史(1972年~)

川平湾の環境保全 琉球真珠の黒蝶真珠養殖に対する認知度が、国内はもとより世界中で高まり、会社としても順調に発展する一方で、いくつかの問題が生じます。
そのひとつが、川平湾をめぐる自然環境の保全という問題です。

1972年(昭和47年)5月の沖縄本土復帰は、川平湾周辺の土地が本土企業によって買い占められる事態を招きます。そうした中、川平湾に進出してきた本土資本の観光業者と、その影響による海水汚染や自然破壊を危惧する当社との間で軋轢が生じます。
1973年(昭和48年)5月、NHKテレビの『水平線からの来訪者』という復帰1周年のドキュメンタリー番組で、その観光業者と渡嘉敷進(当時専務)のインタビューが全国放送されます。すると、沖縄はもとより本土の新聞でも大きな反響を呼び起こし、川平湾の環境保全を求める声がにわかに高まります。
この放送と相前後して当社でも、市や県、国に対し再三にわたり川平湾の汚染防止条例制定や特別水域への指定などの要請を行っていました。そしてついに1974年(昭和49年)9月、テレビ騒動がきっかけのひとつとなり、国は川平湾を、水産資源保護法に基づき沖縄県では初めてとなる「保護水面」に指定します。

その後も川平湾の環境保全の取り組みは各方面でおこなわれ、1997年(平成9年)9月には、川平湾一帯の美しい景観とそこに込められた文化史的な価値を永久に保護するために、「川平湾及び於茂登岳」として国の名勝に指定されます。
現在では、沖縄の代表的な観光地として広く知られるようになった川平湾は、もはや国内だけでなく世界がその素晴らしい景色を認め、2009年(平成21年)には、フランスの有名な旅行ガイドブック『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン(フランス語版)』で、川平湾が沖縄から初めてとなる最高ランクの「三つ星」に格付けされます。

このように日本を代表する美しい景勝地のひとつとして川平湾が世界に知れ渡る一方で、復帰後から現在に至るまで、川平湾をめぐる自然環境には、一朝一夕では解決できない課題も残されています。たとえば、農地開発や林道開発、森林伐採などによって大量に流入した赤土汚染、また近年では下水処理施設の整備により改善されつつも、依然として水質悪化の懸念が残る生活排水の流入などです。

琉球真珠では1975年(昭和50年)11月、会社敷地内の川平湾を一望する場所に、「川平湾が未来永劫きれいな海であるように」との願いを込めて、海の守護神である木彫りの人魚像を建立します。そして、この人魚像が古くなったために、1982年(昭和57年)8月、彫塑家の西表信氏が制作したブロンズ製の乳飲み児を抱く人魚像を新しく建立します。現在では、川平湾を背にしながらこの人魚像と一緒に記念撮影する観光客も多く、人気の観光スポットとして知られています。

琉球真珠では、1973年(昭和48年)2月に玉城仁栄氏が第四代社長に再び就任します。ですが1975年(昭和50年)8月、玉城氏の逝去により、翌1976年(昭和51年)3月に渡嘉敷進が第五代社長に就任します。

  • 乳呑み児を抱く人魚像

  • 石垣島随一の絶景・川平湾



人工採苗に成功 真珠養殖にとって欠かすことのできない母貝の確保も急務となる課題でした。
八重山はクロチョウガイが豊富に生息する海域で、真珠養殖の母貝も当初は天然に生息する貝を使用しました。しかし、養殖を始めた時期からクロチョウガイの天然資源も徐々に減少しはじめ、量産体制を維持するためには母貝の大量確保が必要となりました。

琉球真珠では、会社を発足して間もない1951年(昭和26年)には、玉城仁栄氏(当時専務)が母貝資源の将来を見据えて、カキ養殖の権威、宮城新昌氏に相談を持ちかけています。
その宮城氏による琉球政府と日本政府への長年にわたる働きかけが実を結び、1966年(昭和41年)、日本政府から援助資金を得て、川平湾に八重山水産模範養殖場(復帰後、県水産試験場八重山支場)が設置されます。
その主要な目的のひとつに、クロチョウガイの種苗生産技術開発があり、琉球真珠と共同でクロチョウガイの人工授精による幼生飼育が研究されます。

1971年(昭和46年)、水産試験場では、幼生飼育で付着稚貝21000個体を生産、そのうち14000個体の沖出しに成功し、クロチョウガイの種苗生産技術を確立します。この時に採苗した稚貝は、3年後に琉球真珠で挿核手術を受け、さらに2年後の1976年(昭和51年)には、世界で初めて人工採苗貝から真円黒蝶真珠が誕生することになります。
琉球真珠では、1980年(昭和55年)から稚貝の計画的な量産体制に入り、現在では黒蝶真珠の養殖母貝は全て人工採苗したクロチョウガイを使用しています。

人工採苗による稚貝養殖に適した漁場を求め、当社は1974年(昭和49年)に、新たに西表島船浮湾に養殖場を開設します。1992年(平成4年)には船浮養殖場に最新の設備を投入した採苗棟を完成させ、人工採苗の研究に取り組みます。
また1987年(昭和62年)には、西表島外離(そとばなれ)にも養殖場を開設します。
このように当社は、真珠養殖の量産化に対応して漁場の拡大も図ってきました。

  • 西表養殖場 管理・採苗棟

  • 西表養殖場 飼料培養室

  • 外離養殖場



国内初の白蝶真珠養殖 琉球真珠では、黒蝶真珠の固定化したイメージの打破と市場の拡大を視野に、「南洋真珠」や「ゴールドパール」と呼ばれる、シロチョウガイによる真珠養殖にも挑戦します。

シロチョウガイはオーストラリア北岸、インドネシア、ミャンマーなどの南方海域に分布し、もともと沖縄には生息していません。そこで当社では1981年(昭和56年)から数年間、生息域の北限であるフィリピンより生きたシロチョウガイを搬入し、西表島船浮養殖場でこの真珠母貝の養殖研究を開始します。
当社は、クロチョウガイの人工採苗で培った技術を生かし、1984年(昭和59年)にはシロチョウガイの人工採苗に成功します。
その後、沖縄本島北部の羽地内海でもシロチョウガイの試験養殖を行うことに決め、1989年(平成元年)からは今帰仁、羽地の両漁業協同組合と共同研究をスタートさせます。(この共同研究は現在終了しています。)

1991年(平成3年)10月、前年に挿核し、船浮養殖場と羽地内海で養殖したシロチョウガイを試験的に浜揚げします。その結果、ほぼすべての貝から8~12ミリの白蝶真珠2200個余りを収穫します。
こうして琉球真珠は、国内では初めてとなる白蝶真珠の量産化に成功します。
そして1993年(平成5年)12月には、白蝶真珠4000個を浜揚げし、その中には質の高いゴールドパールも含まれていました。 翌年には石垣市と那覇市で、「新製品ゴールドパール誕生記念」と銘打ち展示即売会を開催します。

琉球真珠では今日、「世界初黒蝶真珠、国内初白蝶真珠」のキャッチフレーズをもとに、黒蝶真珠と白蝶真珠を二つの柱として、養殖から加工、販売まで一貫体制の事業に取り組んでいます。

1988年(昭和63年)3月には、渡嘉敷進が社長を退き、会長に就任します。

  • シロチョウガイの人工採苗成功を祈願



沖縄が誇る芸術品 琉球真珠は、2000年(平成12年)7月に開催された九州・沖縄サミットにおいて、首脳会議に出席した各国首脳夫人方へ、沖縄県より当社の黒蝶真珠ペンダントが贈呈されるという栄誉に浴します。世界のファーストレディへの公式贈答品として、琉球漆器、紅型と並び、当社の黒蝶真珠が選出されたのは、沖縄が生んだ世界に誇る芸術品として広く認められたことの何よりの証しでしょう。

2004年(平成16年)1月、天皇、皇后両陛下が初めての石垣島行幸啓で川平湾をご視察されます。天皇、皇后両陛下をお迎えする川平の地域住民とともに列席した渡嘉敷進は、天皇陛下より「黒真珠の普及発展の功績、ご苦労様です」とのありがたいお言葉をいただきます。
翌2005年(平成17年)、渡嘉敷は、黒蝶真珠養殖のパイオニアとしての功績と地場産業振興への貢献が認められ、秋の褒章で黄綬褒章を受章します。

2004年(平成16年)11月、琉球真珠のブランド化と販路拡大を目的に、販売子会社「ペルージェ川平株式会社」を設立、テナント店を中心に営業部門の一部を譲渡します。

2010年(平成22年)9月には、第九代社長に渡嘉敷一史が就任します。

琉球真珠は現在、石垣島において直営3店舗を展開し、養殖事業の歴史ある伝統と先駆的な技術を受け継ぎながら、清らかな沖縄の海から質の高い真珠をお客様のもとへお届けすることに力を注いでおります。

  • 2000年九州・沖縄サミットで各国首脳夫人へ贈呈されたものと同型モデルの黒蝶真珠ペンダント