琉球真珠

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真珠養殖

石垣島の真珠養殖(戦前)

沖縄の真珠養殖の幕開け 琉球真珠が沖縄の石垣島川平湾において世界で初めて成功した黒蝶真珠養殖は、多くの先人たちの苦労と挫折によって支えられています。それは明治の時代にまで遡ることのできる長く困難な道のりでした。

沖縄の真珠養殖の歴史は、中村十作氏とともに始まります。
新潟県出身の中村氏は、1892年(明治25年)、八重山へ向かう途中で立ち寄った宮古島で城間正安氏と出会い、琉球王国時代より宮古島に課せられてきた過酷な人頭税の廃止運動に奔走することになります。この行動により中村氏は、城間氏とともに、人頭税廃止の先駆けとして沖縄近代史に偉大な足跡を残します。
その中村氏が宮古・八重山の先島地方にやってきた本来の目的は、天然真珠を産する真珠貝(クロチョウガイ)を手に入れ、真珠採取事業をおこすことにありました。
ちょうどこのころ、御木本幸吉氏のアコヤガイによる半円真珠養殖の発明により、真珠は天然採取から養殖の時代へと移り変わります。
中村氏がようやく真珠養殖事業に着手するのは、奄美大島でマベガイを使った半円真珠養殖を試みる1910年(明治43年)からです。そして1912年(大正元年)には、宮古島で渡辺理一氏と共同で、クロチョウガイを使った半円真珠養殖に取り組みます。
こうして沖縄の真珠養殖の歴史が幕を開けることになります。



川平湾の御木本真珠養殖場 1914年(大正3年)5月、御木本幸吉氏が石垣島登野城に事務所を開設し、名蔵湾観音崎と登野城美崎浜でクロチョウガイを使った真珠養殖に着手します。
この事業には、石垣島で海産物商を営み、また尖閣諸島の開拓者として知られる古賀辰四郎氏が共同出資します。御木本氏は、かつて古賀氏から琉球泡盛を仕入れるなど、古賀氏とは旧知の仲にありました。当時、石垣島の古賀商店では、貝殻が貝ボタンの原料として需要があったヤコウガイやタカセガイとともに、クロチョウガイの買い入れも行っていました。

名蔵湾の御木本真珠養殖場では、沖に向かって石積みの堤防を築き、その堤防内の海底で真珠母貝を養殖しました。そこで潜水作業をしていたのは三重県から来た海女たちで、石垣島の人々はその姿を物珍しそうに眺めたそうです。
名蔵湾の養殖場は相次ぐ台風被害のため、崎枝屋良部崎へ移動することになります。古賀氏はこのころ共同経営から手を引きます。ところが屋良部崎もまた、台風被害が大きく閉鎖を余儀なくされます。

御木本幸吉氏が川平湾に真珠養殖場を開設するのは、1916年(大正5年)5月のことです。1925年(大正14年)までには川平湾での真珠養殖に本腰を入れ、後年には沖縄県内18ヵ所に所有していた区画漁業権を川平湾以外は全て放棄し、沖縄での真珠養殖を石垣島川平湾1か所に集中します。

御木本真珠養殖場では当初、クロチョウガイのほかにマベガイも使い、半円真珠と真円真珠の養殖を試みます。そして1928年(昭和3年)頃からは、クロチョウガイによる真円真珠だけに養殖研究を絞ります。
しかし、真円の黒蝶真珠が試験的に浜揚げされる事例はあったものの、川平湾の御木本真珠養殖場は長い期間、量産化を目前にして足踏み状態が続きます。

  • 大田正議氏作『大正3年名蔵湾に建設された御木本真珠養殖場全景』(琉球真珠所蔵)

  • 名蔵湾に今も残る御木本真珠養殖場跡



岩崎卓爾氏と御木本真珠養殖場 真珠養殖の最適地として川平湾を御木本幸吉氏に推薦したのは、石垣島測候所長の岩崎卓爾氏といわれています。
1931年(昭和6年)には、その岩崎氏のもとに御木本氏から、石垣市内登野城の養殖事務所を閉鎖し、養殖事業は全て川平で処理するといった内容の私信が届きます。岩崎氏は翌年に測候所を退官すると、御木本真珠養殖場の管理者を務め、事業が縮小された後の養殖場の面倒を見ることになります。

岩崎氏は、このころ生物調査で来島した九州帝国大学教授大島廣氏に、川平湾の養殖場の一部を九州帝大の臨海実験所として寄付したいと申し出ます。しかし1937年(昭和12年)、岩崎氏の逝去により、それが実現することはありませんでした。

1940年(昭和15年)、川平湾の御木本真珠養殖場は、戦時下の統制により全ての手術貝を浜揚げして閉鎖します。
御木本氏が川平湾に養殖場を移してから24年間も試行錯誤を重ねた黒蝶真珠養殖は、商業的な成功に手が届く前に、その歩みの途中で終わりを迎えます。
至難の業であった黒蝶真珠養殖は、戦後まもなく沖縄で再開されることになります。